比嘉萌

GRCで受けた素晴らしい恵みを証する前に、少し自分自身の証をシェアさせていただきたく思います。

救いの証

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。/主よ。私は、あなたのさばきの正しいことと、あなたが真実をもって私を悩まされたこととを知っています。」(詩篇119: 71, 75)

私は現在沖縄に住む23歳の女子大生です。地元沖縄の無宗教の家庭で生まれ育ち、高校を卒業後、アメリカのウィスコンシン州にある小さなリベラルアーツカレッジに進学しました。中学のときのアメリカ人の英語の先生が牧師をされており、その先生の証を聞いたのが初めてイエスキリストを知ったときでした。高校の担任だった恩師は熱心なカトリック信者であり、大学は全米でも指折りなsecularな大学なのにも関わらず、そこでできた二人の親友が学内でも数少ないクリスチャンでした。また当時付き合いはじめた別大学の日本人もクリスチャンでした。そのような神様とのわずかな接点がありながらも、クリスチャンというのは全く別世界の人間であり自分とは無関係だと思って生きていました。

大学生活と同時に始まった恋愛は、私に痛みと恵みをもたらしました。親元を離れ自由を手にしたと錯覚した私たちは、互いしか見えなくなり神様から遥か遠く離れてしまいました。彼は私の中の完全なる偶像でした。2年近い交際が終わる頃の私は悲惨で、表面的には充実した大学生活を送りながらも、心はいつ折れてもおかしくない限界状態でした。別れを告げられて彼との関係が途絶えてからも、過去の過ちの重さが私を苦しめ続けました。信じていた愛とは何だったのか。そもそも愛など存在するのか。私とは何者で、どこからきて、どこへいくのか。「このままじゃだめだ」と思った私は、仏教的瞑想修行を始めました。同室のクリスチャンの親友は、毎朝5時に起きて瞑想している私を見て「じゃあ私も」と、隣で黙って聖書を読み、長い祈りを捧げるようになりました。学期はじめの日曜日に「座ってるだけでいいから教会いこう」と誘われました。見よう見まねで出た礼拝で賛美をすると、急に涙がこぼれました。聖書はお伽話にしか思えなくても、そこには心を揺さぶる何かがあることを確信し、それから毎週教会に通い始めました。親友は毎朝のデボーション仲間に加えてくれ、学内の友人たちと私のために祈ってくれました。夜更けまで神様について議論する中、私が攻撃的になっても彼女はいつも穏やかな笑顔で辛抱強く私を待ってくれました。そのうち私は、他人を見下し裁くことしかしない自分の醜さに気付かされ、愛と赦しを知る彼女たちとは違う世界にいることに気付きました。神様に委ねる喜びに満ちた人生を見て、「今は信じられないけど、いつか信じたい」と切に願い始めました。それはいつしか祈りとなり、静かに、確かに、答えられていきました。

2014年11月、InterVarsity(IV)の主催する Cross Trainingというリトリートに参加した私は、みことばを通して学ぶなかで確信が与えられ、二日目の夜にキリストを受け入れました。私のすべてを明け渡します、あなたのためにお使いください、と涙ながらに祈りました。親友たちも泣いて喜び、私は彼女が1年生の頃から救いのために祈っていたことを聞き、全てが主の計画の内にあったことを知り、主の恵み深さに心打たれました。私は主において癒され、主において初めて私自身になることができました。

2015年の5月には卒業を予定していた私ですが、1月のはじめに沖縄の実家に災難があり、洗礼だけ受けてすぐに帰国し1年間休学することになりました。計り知れない痛みのなかにある家族に必要なのは福音だという確信と燃える使命感を持って帰国しましたが、クリスチャンの知り合いがいない地元での生活は楽ではありませんでした。IVの主事との毎週のスカイプミーティングに励まされながら、ホームチャーチ探しに3ヶ月を費やしましたが、最終的には予想できなかった神様の導きのなかで、現在通う地元の日本同盟基督教団浦添ジョイ教会に繋がることができました。同年代のクリスチャンとの交わりを切に祈り求めていたところ、教会を通してKGKに繋がり、今年6月からメンバーとして積極的に関わらせていただくに至りました。また、そのような日々のなかで、この国の人々ために伝道をしたいという献身への思いが与えられていきました。

GRCの証

初めてGRCのことを聞いたのは、今年6月にKGK沖縄担当主事である大嶋さんと初めて会ったときでした。海外の大学で救われ、将来は日本の宣教のために何かがしたいと漠然と思っている、という話をすると、すぐに私の知らなかったGRCやJCFNの話をしてくださり、Facebookページで招待してくれました。JCFNのような働きをする団体があったことにも、私と同じような立場の若者がたくさんいるということにも、衝撃を受け、感動しました。「彼・彼女らと繋がりたい、そこで語られる神様の言葉を聞きたい、きっと将来神様が用意されているプランへの導きがあるに違いない」と思った私は、すぐに参加を決め、飛行機のチケットを予約しました。ノンクリスチャンの親からは積極的な理解は得られず、経済的な支援を頼むこともできなかったため、「御心であるならばどうぞお与えください」と祈りながら、奨学金を申請させていただきました。申請した額が支給される恵みにあずかり、感謝と期待をもって、シルバーウィークの始まる週末、沖縄から旅立ちました。

GRCは、初日の晩の集会から会場を満たす御霊のエネルギーに圧倒されました。それぞれバックグラウンドや年齢は違えども、神様を慕うこれだけたくさんの人々が日本中、そして海外から、熱い思いをもって集っているということだけで神様の愛の深さを見たように思い、賛美のときから涙が止まりませんでした。関先生のメッセージでは、初めて体が燃えるような悔い改めのときが与えられ、十字架の力を過小評価していた傲慢な自分と今まで解決していたと思い込んでいた過去の過ちを主の御前にさらけだし、涙ながら赦しを請いました。

松本先生のメッセージでは使徒行伝の8章から私たちの先輩であるエチオピアの高官を喜ばせた主の御業に励まされ、「導くのは私自身ではなく聖霊なのだ」という事実を再確認させられました。

スモールグループでは同年代の7人が集い、特に二日目の晩の証大会を通して深く貴重な交わりが与えられました。それぞれ異なった環境にありながらも同じような悩みを抱えており、寝食を共にする中でそれらをただ素直に打ち明けられる姉妹が与えられ、本当に大きな慰めを感じました。プライベートな証はもちろん、それぞれの日々のデボーションのやり方や職場での福音のシェアの体験など、取り入れようと刺激されたり励まされたりした会話がいくつあったかわからないほどです。最後の晩に輪になって手を取り合って皆で同時に互いのために祈り合ったときには、はっきりと、神様が私たちひとりひとりをここで会わせてくださったのだという導きとその愛を強く強く感じました。

GRCに参加できたのは、大嶋さんに初めて出会った6月の夏期準で教えてもらったからであり、generousな奨学金をGRCに寄付してくださった方が私の参加を可能にして下さったからであり、何よりも犠牲を惜しまずGRCをつくりあげてきて祈ってきてくださった数え切れないほどの人々の神様への熱い思いがあったからです。あのような恵みにあふれたconferenceがもたれたことを思い返すと、本当に、主を賛美せずにいられません。

一生今回のGRCのことを忘れないだろうなと思います。

救いを、悔い改めの心を、召命の確信を、愛する兄弟姉妹を、あなたの夢を、神様、心から感謝します。

帰ってきてから、このみことばがずっと頭のなかにあります。

「『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる』のです。しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がいなくて、どうして聞くことができるでしょう。」(ローマ10:13-14)

ホスピスで、70歳になるボランティア仲間のおじさんと話をしたとき、「今までクリスチャンになんて出会ったこともないし、聖書のことばや賛美歌なんて、この病院に来るまで人生で一度も触れてこなかった」というのを聞いて、今更のように驚愕しました。高校の友人であれ、親族であれ、周りのほとんどの人は、福音を聞いたことがない。それも、福音に耳を塞いできたというよりは、単純にその機会に出くわさないまま生きてきたという人がこんなにも多くいることに、胸が痛みました。病棟を見回したとき、もうすぐ来る死を目前にしている彼/彼女らのなかで、キリストを知っている人がいったいどれくらいいるだろう、福音の届かないところでこの数十年を生きてきた人たちがどれくらいいるだろうと思うと、悔しさのようなやりきれない思いでいっぱいになって、涙ながら祈らずにいられませんでした。

私たちの神様は、信仰を表明するのがためらわれるような恥ずかしい神様なんかじゃない。彼自身の民を見捨てたりあきらめたりする神様でもない。私たちが過小評価できる神様なんかじゃない。神様は、この国をあきらめてなんかいないし、神様は、この家族を、この友人たちを、あきらめてない。神様は、22年間私をあきらなかったから、私は今ここにいる。

それなら、なぜわたしたちがあきらめられようか。

「恐れることはない」と、こんなにも繰り返し語ってもらわないことにはその一歩を踏み出せないほどに、私たちは臆病で疑い深い。だけど確かに、道を作られるのは主。前を歩かれるのは主。この弱い心を支えるのは主。

私たちのなかに生きるあなたの光が、少しずつこの国を照らしはじめるのを感じています。主よ、私たちひとりひとりのなかでかがやいてください。みことばのともしびを見失わないように、私たちの目を覚まさせていてください。

キリストが死ぬほどに愛された者として、主が遣わせてくださったこの国で、歩かせてください。

GRC証